Hagihara Coffee History 萩原珈琲ヒストリー

ただ真っ直ぐに、おいしいコーヒーのために。

創業は1928年(昭和3)。昭和モダン隆盛の華やかなりし神戸で、萩原三代治は珈琲焙煎卸業を始めました。やがて三代治は炭火焙煎を自ら考案し、現在の萩原珈琲の根幹となる味をつくりあげます。「本当においしいコーヒーを」という思いは創業時のままに、時を経てますます深くなっています。

自ら焙煎に従事する創業者萩原三代治

創業は1928年(昭和3年)

「これからはコーヒーをたくさんの人が飲むようになる」

萩原三代治は、ふるさと兵庫県西部の赤穂の地を離れ、神戸の街で小豆や大豆、缶詰などを扱う食品卸業を営んでいました。ある時、仕入れ先の方から「これからはコーヒーをたくさんの人が飲むようになるよ」と、コーヒーの焙煎卸業を勧められます。時は昭和の初め。ハイカラの言葉が似合う神戸の街らしく、カフェでコーヒーを楽しむ人を見かけるようになっていました。 1928年(昭和3)10月。新しい時代の息吹を感じながら、三代治はコーヒー焙煎卸業を始めます。

薪を使った窯でおいしいパンが焼けるのならば、コーヒーも…。

コーヒー焙煎を安易に考えていたわけではありませんが、手掛けてみると奥は深く、当初はガスの窯で試行錯誤しながら取り組んでいました。その頃、取引先に薪を使い独特の窯でパンを焼く評判の店がありました。配達に行くたびに、窯でおいしそうなパンが焼き上がる様子を三代治はじっと見ながら、「コーヒーももっとおいしくなるかもしれない」と考えていたのです。

しかし、時代は戦争へと向かいます。コーヒー豆の輸入は停止され、休業を余儀なくされました。

戦後もしばらくは輸入は再開されず、どこからとも無く供給される豆(おそらくは進駐軍からの横流しや元日本軍の備蓄分)を業者間で分け合って、焼け跡から掘り出した窯で細々と焙煎していました。そんななか「コーヒー豆はありませんか」と戦前のお取引先をはじめ徐々に問い合わせがくるようになり、戦後復興の兆しを感じ始めます。

1950年(昭和25)、ようやくコーヒー豆の輸入が再開。そこで、三代治はあのパン屋のことを思い出し、炭火焙煎へのチャレンジを開始したのです。

炭火焙煎こそが萩原珈琲

手間はかかるが、おいしいコーヒーができる。

はじめは焙煎に使う炭がなかなか手に入らず、薪を細かく切って、炭のようになるまで待って使っていました。やがてコーヒー焙煎に適した炭に出会い、本格的に炭火焙煎に取り組みます。

炭火焙煎は、豆の状態に合わせ炭火を調整しながら、煎り具合を目や耳で判断しなければならない、ガス式よりも手間のかかる焙煎方式です。しかし、独特の深いコクとまろやかな味を持つコーヒーに仕上がります。さらにこの当時から三代治は生豆にもこだわり、良質の高価な生豆を使っていました。

当然のことながら、価格は他社に比べると高くなります。しかし、「この味を認めてくださるお客様に買っていただきなさい」と値引きして売ることのないよう社員たちに厳しく言い聞かせていました。

いつの間にか三代治は、味と品質に対する確固たる自信と誇りを持っていたようです。

時代に流されず、流行に惑わされず。

1960年代の高度成長期に入ると、周りの焙煎会社は大量に効率よく焙煎できる熱風式ガス焙煎を次々と採用。しかし、萩原は独自の味にこだわり、炭火焙煎を貫きました。また80年代にはグルメブームとともに炭火がおいしさの象徴として脚光を浴びますが、三代治から経営を引き継いでいた萩原恒雄(2代目代表取締役社長)は、ただ炭火というだけで相次いだ全国からの引き合いにも、安易に応じることはありませんでした。「本当においしい」とそれまでにお取り引きくださった多くのお得意様への感謝の気持ちと、創業以来の炭火焙煎への一徹な思いからでした。

豆の開拓、そして次の展開へ

「茜屋珈琲店」様との出会い。

1966年(昭和41)、神戸市生田区(現・中央区)に「茜屋珈琲店」が開店。何事にも妥協を許さない初代店主故・船越敬四郎様が選んだコーヒーの仕入れ先は、萩原珈琲でした。コーヒーの味も然ることながら、手間のかかる炭火焙煎を貫く姿勢に好感を持っていただいたとのこと。

船越様の著書「珈琲・九百九拾五圓」の中にこんな話が記されています。『開店して間もなく、まだ店が閑散としていた頃、モカ豆の中のいわゆる欠点豆というものを退屈しのぎにはじき出してみた。さらに試しにとその欠点豆だけを淹れて飲んでみるととても飲めたものではなかったので、私たち夫婦は欠点豆をはじくようになっていた。ところがある時から、届けられる豆にこの欠点豆がほとんど見当たらなくなった。不思議に思い萩原珈琲の担当者にたずねると、「お二人で選っている姿をお見かけして申し訳なく思い、お届けする前に選別しています」とのこと。その心づかいに感服したが、月末の請求書を見ると先月のまま。「単価をあげればいい」と申し出たが、「そのままで結構です」とのことだったので、素直にご好意に甘えることにした。私たちは少々手持ち無沙汰になったが、程なく店が忙しくなり、本当に有難いと思ったものだ。やはりその価値を認めて値切るなどせずにいて良かったと夫婦で語り合った。』(要約)萩原にとっても、良い教訓となった大切な思い出です。

アイデアに富んだ独特の経営手法で茜屋珈琲店の名は広く知れ渡り、各界の名士が集まるようになりました。そのなかで「うちは萩原さんの炭火焙煎のコーヒー豆を使っているから世界一おいしい」と明言されていたそうです。

萩原珈琲にとっても、大きな飛躍へのきっかけとなった茜屋珈琲店様との出会いでした。代替わりされた茜屋珈琲店様とは、今も親しくお付き合いさせていただいております。

現地カップテイスターとの運命的な出会い。

めざす味を正確に理解し、それに応えてくれる優れたカップテイスターに出会えることは、珈琲焙煎業者にとって幸運な出来事といえるでしょう。 1982年(昭和57)、萩原孝治郎(3代目萩原孝治郎)は、コーヒーの産地コロンビア、ブラジルを訪問。農園での作業や生豆精選の工程を視察し、現地ならではの様々なコーヒー豆の知識を貪欲に吸収していくうちに、出発前から抱いていたオリジナルブランド開発への思いが強くなります。滞在中、ブラジル三菱サントス事務所(現MCCB)を訪れた時に、何気なく声をかけたブラジル人カップテイスターと話が弾み意気投合。「萩原のオリジナルの味をつくってもらえないか」と相談してみると意外にも快諾を得たのです。これが世界的にも著名なカップテイスター、マネコ氏との出会いでした。

現在のオリジナルブランド“ブラジルHAGIHARA”は、この出会いによって誕生しました。

震災を乗り越えて

1993年(平成5)、神戸市長田区に念願の焙煎工場を建設。焙煎の直前までの全工程をオートメーション化した最新鋭の工場でした。ところが、稼働から2年も経たない1995年(平成7)1月に阪神淡路大震災が発生。神戸市とその周辺地域が甚大な被害を受けました。もちろん萩原珈琲も本社、工場とも稼働できなくなりましたが、ともかくお得意様にご迷惑をかけてはならないと、同業他社に焙煎や豆の供給を依頼し、急場を凌ぎました。工場は辛うじて倒壊を免れましたが、床面が最高60cmも傾くなど不備な状態を補いながらの再開となりました。

2007年(平成19)、再び念願の焙煎工場が神戸市中央区に完成。不完全な状態の工場で、震災前と変わらない萩原の味を長年保ち続けた工場スタッフへの感謝とねぎらい、そして次代への希望にあふれた火入れ式が行われました。

現在、六甲山麓と海をのぞむこの新工場で、萩原珈琲の味はさらに磨かれています。